最近寝覚めが良い。
と言っても別に早起きできるわけではないのだが、
寝起きの頭痛や不快感や布団の外に出る億劫さや(これは室温の問題かも)
1日が始まる絶望感などが、丸ごと薄れたようだ。

…これが、薬の力なのか!?!?

あるいは、連休で少し休めたせいかもしれないけれど。
正直、ちょっとなめてました。
薬ってすごいんですね。
自分、脳で何かしら分泌してあーだこーだ感じた気でいるんだな、って思いました。(小並感)←初めて使った

生理前とかもそうですよね。
人生の終わりみたいに嘆いていたけど、ただのバイオリズムの悪戯かと。
認識しない限り、そこに問題は存在しないのかと。
ないと思えば、最初から何もないのかと。
あると思えば、何でもあるのかと。

そういう適当さ、忘れないようにしたい。

というわけで

早速精神科に行ってみました。 
とりあえず手近ですぐ予約が取れるところに…

「鬱っぽいですねー」
ということで、何かソレ系の薬をもらいました。

……。


ああ…そうだった。
私が必要を感じているのは、対処療法ではなくて、体質改善みたいなことなのだ。
「過剰にストレスに弱い」の「過剰に」をなんとかしたいのですが、こういうのはカウンセリングが必須だよなー。
というわけで、有り難く薬は飲みつつも次の手を考える。

できれば精神分析自由連想法とか受けてみたいけど、超絶時間とお金がかかるのですよね。
認知行動療法とかはほとんど知識がないけど、どうなんだろう。
昔暇を持て余していた時に受けられていたらなあ、と、(実際受けたかったのだけど地理的に難しかった)珍しく過去を惜しむ気持ちになりつつ。
とりあえず、しばらくは常識を忘れて自分を臨床的な目線で見てみようと思う。

ブログのコンセプトが不明すぎる

何がメインのブログなのか自分でもよくわかってなくてすみません、という。
しかし、「無粋に踊る」というのは何を書いても成立するタイトルだね!(自画自賛)
「無粋に」と頭から全力で予防線を張っている痛々しさがたまんないね!

生きづらくないような顔して生きなくちゃ、となぜか思っていた節があるけど、(家では完全にスイッチ切ってるけど)
生きづらさを真っ向から考えることをやめると、本当に何も考えられなくなるなあ、と思った。
最近本当に何も考えられなかったし、インプットもできなかった。
今ちょっとだけ脳がうるおった気がする。ブログって結構大事かも。

人が共感するのは、生きづらさに対してじゃないかな?
似たような生きづらさを持っていそうな気配がある芸能人とか、どうしても好きになってしまうよね。
「あ、この人は!!悪い人じゃないです!私が保証します!」
って壇上に躍り出てしまうよね。
何の壇上やねん。

ものすごく唐突だけど

中学生の時以来に、精神科を予約してみた。

なんとかかんとか騙し騙し生きてきてしまったけど、私は明らかにストレスに弱い人間で、
それはもう気合いとかでなんとかできるものではないものなんだなと。
最近いよいよ仕事が手に負えなくなってきたので、白旗を揚げることにしました。

というか、今まで思いつきもしなかったのだけど、正月に帰省した折
「この間新聞で見たけど、あんたもしかして適応障害ってやつなんじゃない?」
という、何の知識もない家族からの雑な指摘に目からウロコ。(適応障害の方、正しい知識なく使ってすみません)
適応障害かはさておき、病名がつくかはさておき、
こんなにも人並みでない人間の味方になってくれる人が!
金さえ払えばいるかもしれない!!(…)

荒れる私のあおりを食らう寛大な家族の気が狂う前に、そういう手を打つのが今できる大人な判断かも。と思えました。
私は堪え性がないので私の気は狂わないけど、全部ブン投げて仕事めちゃくちゃにする前に助けてもらおう。そうしよう。

正直中学生の頃に通っていた時は(無論別の病院である)何の意味があるのか全くわからない時間を過ごしていたけど、
今なら問題意識もはっきりしているし、きっと光明が見える…と信じて……

今自分を縛っている一番大きな呪縛は恐らく恐怖で、
過去に引き摺り込もうとする恐怖から必死に逃げるように明るい未来を目指してきたつもりだったけど、
そんなことでは強くなれないのだな。
弱い自分を見ないふりしては先に進めないのだよね。
言葉にすると超絶普通だけど、なかなか難しいことなんだなと改めて。

久々に己を語る言葉を得た気がしたので、メンヘラぶってブログ書いてみたよ。
前提を全部すっ飛ばしててすまんだよ。

パーソナルデザイン×カラオケ論

大袈裟に銘打ったものの、小ネタである。


パーソナルデザインと、カラオケで得意な(好評を博す)曲目には多少の関係性があるのではないか。

パーソナルデザインの分析に人柄や声質も考慮されることを考えれば、そんなに突飛な話ではないのではないように思う。


だってアバンギャルド代表倖田來未(以下敬称略)は月曜がどうしたみたいな日常的な情景を歌ってるよりよくわからないキューティーハニーとかを歌ってる時の方が替えの効かない個性が光るように思えてならないし

ロマンス代表由紀さおりはデビュー曲から一貫して色っぽい。

アイドルはもっぱらキュートが多いし

ストイックな演歌が似合う石川さゆり坂本冬美は、派手なメイクも乱れ髪もカジュアルな服も遊びのある装飾もビックリするくらい似合わず、正統派の着物姿が一番オーラに満ちている。(グレースっぽいけれど、プロの見解を見たことがないので断定は避ける)

一方どうにも正統派の枠に収まりきらないらしい氷川きよしは、演歌なのか演歌じゃないのかわからない独自のラインを行ったり来たりしている。

宇多田ヒカルはかなりいろいろなスタイリングを経つつも今のマニッシュカジュアル(?)路線が一番女らしくて美人に見えると思うのだけど、中性感のある声と、テクニカルだがアカデミック感のない歌い方の感じにもぴったり合っているように思う。


パーソナルデザインから歌のジャンルが特定されるとかそんな乱暴なことはないと思うけれど、

自分のデザインイメージに合った曲を一曲見繕って十八番にしておくと、気心の知れない人と行くカラオケなどで強い味方になってくれるのではないだろうか。

きっと映えると思うので、デザインタイプがわかっている人にはぜひやってみて欲しい。


ちなみにアバンギャルド&ボーイッシュの私は、どうも男歌と人間じゃない系の歌で比較的ご好評いただく。

ハイスタイルの夫は、なんだかわからないがラップが様になる。


以下余談。

歌がうまければ何でも歌えるけれど、それでもやっぱり良さが映える曲とそこまででもない曲というのはあるように思う。

美人なら何を着てもアラが目立ちにくいのと一緒かな。

あるいは、とても演技が上手い役者さんとか。


それは近年の松浦亜弥を見ていてとりわけ感じるのだけど、彼女はやっぱりちょっと変わったところのある曲やテンションの高い曲(色々な意味で)、可愛らしさのある曲がとびきり似合うんじゃないかな、と思う。

抜群に安定した歌唱力をお持ちなので、最近『ひこうき雲』のカバーが注目されていますね。

長年のアイドル人生の反動で「普通のいい歌だって歌える!」という方に振れているのかと思うのだけど、そしてもちろん歌えるのだけど

彼女のような個性を持った人がわざわざ『正統派』一色になってしまうのは、なんだかもったいないような気がする。

歌唱力を活かしつつ、ちょっとヘンでかわいい、彼女の魅力を活かすしっかりした曲を誰かつくってくれないかな。

自分が聴きたいだけの、大きなお世話です。

洒落ていること

私のパーソナルデザインはキュートアバンギャルドで、バンギャルドは「凝ったデザイン」とか「洒落たもの」が似合う、小粋なタイプらしい。

小粋とは程遠い人生を送ってきた私は、このへんの事情を飲み込むのにわりと時間を要した。


「凝った」は、なんとなくわかる。
ファッショナブルの小型版だから、結構なインパクトが必要なのだけれど、ファッショナブルタイプのようにデザインの大きさ・スケール感でそれを醸し出すことが出来ないので(それをやるとサイズ感に負ける)、必然的に形や柄や装飾の工夫で同等のインパクトを得ることになる。
しかし、「洒落た」とはなんぞ?


iPhone内臓のどこぞの辞書によると、『洒落』とは「気の利いた服装や化粧で身なりをととのえていること」らしい。
『気が利く』で引くと、「いきである。しゃれている」と出てくるので困る。


いや、私だってオシャレな感じがどういう感じかのイメージくらいはわかる。
しかし、フェミニンタイプの説明が「フリルや繊細な装飾が似合う」だったりするのに比べると、若干漠然としているというか、観念的なのが気になっていた。(もちろん具体的なアドバイスはあるし、変わった物・真面目でない物が似合うので、それ以上定型の表現に落とし込みきれないのだと思う)
何かと自分なりにしっくり来る定義が欲しくなる私は、全体を総括しつつ、観念的でなくアバンギャルド感を説明する言葉を探していた。

で、見つけた。
というか、イメージコンサルタントの方のアドバイスを聞いているうちに、ピンと来る言葉に出会った。
キーワードは「機能性」である。
『洒落』=『粋』=『気が利いている』とは、心を喜ばせるための遊びがあることだ。
それは、物理的な機能性とは全く関係ない…というか、「オシャレは我慢」と言うくらい、むしろ相反するものであることが少なくない。
私は「真面目なものが似合わない」のと同様に、「機能的っぽいもの」も似合わないのだった。
走りやすそうなクッションの効いたスニーカー、たくさん物が入る頑丈なリュック、紫外線をばっちりガードしてくれるつば広の帽子、似合わない。遊びがないから。(他のタイプでも色々な事情でこれらが似合わない人は多いと思うが)
スポーティさゼロのヒールスニーカー、物が入らなそうなミニリュック、全く日差しが防げないし防寒にもならないコンパクトな帽子、似合う。機能的じゃないから。

つまり『機能的には何の役にも立たない遊びがあること』がアバンギャルドにとってこの上なく重要であり、これを基準にすれば、どんなにセンスのない人でもアバンギャルド的か否かの判別ができるはずだ!

というのが私が至った結論で、勝手に溜飲を下げて満足している次第である。

けれど他のアバンギャルドさんのパーソナルデザイン理解を妨げるようならば、見てしまった方にはさらっと流していただけると幸いである。


しかし、当然ながら『機能的にはなんの役にも立たない遊び』は、大方のおしゃれな人の格好に大なり小なり登場している。
柄なんて機能的にはなくても良いし(迷彩柄は除く)、ベルトはズボンが下がらないならしなくても良いし、まして靴やカバンと色を合わせる必要なんて全くない。
でも、やっぱりそういうのに気を遣ってる人って素敵だ。粋だ。
『オシャレ』というとなんとなく気が引けるのだけれど、『粋』というと憧れてしまうのは、肩の力を抜いて心豊かに生きている感じがするからだろうか。


それにしても、果たして「機能的でない程似合う」のだろうか。
今日、あるお店でとても見た目にしっくり来るバッグを見つけた。
幾何学的な形の大きめのビーズのようなパーツで出来ていて、光沢があり、クラッチ型とミニショルダー型があるのだけれど、両方ともマチはないので物はあまり入らず、おまけに信じられないくらい重かった。
機能的でないことこの上ないけれど、果たしてこれを無理して持つことは粋なのだろうか…と思った。
重さが特に苦にならないとか、ずっとバッグを下げているわけではない環境の人ならば問題ないと思うけれど、苦になってしまったらもう粋ではない。
高いヒールも、それを履く心のウキウキを、歩きにくさや苦痛が上回ってしまったら、粋ではない。
遊びの範疇を超えてしまったら、粋ではないんだ。

結局見た目には心が表われるもの。
見た目は小粋(予定)、頭脳は無粋の己を省み、空を見る。

そうは言っても

ちょっと間が空いてしまったけれど…

そうは言っても、である。


やはり客観的に見て似合うからと言って、誰かに押し付けられた服を渋々着ていたら、それはその人の一番輝ける姿とは違うと思う。

あるいは、勧められたから、自分ではちょっと納得行ってないんだけど着てみてる、とか。

これは私は、わりとやりがち。


逆に、客観的にどうかは知らないけど、これが好き!というポリシーを持って選んだ物を身につけている人は、やはりなんとなく素敵な感じがする。

(必ずしもそれを身につけていることによって少しでも美男美女に見えたり、スタイルがよく見えたりするかはともかく)

お洒落な人や美意識の高い人は、ここの選び方の質が違うのだと思うけれど、ベースの思考回路はあまり変わらないのじゃないかという気がする。

「好き!」って気持ちが判断基準になるというところ。

(基本的に人は成熟する程、相対的な見方、様々な関係性を踏まえた考え方が出来るようになっていくと思う。ファッションリテラシーが高まる程、自分という素材や今持っている服との関係性を踏まえた上で、の「好き」になっていくような気がする)


○○診断などのイメージコンサルティングも、自分を知ること、自分のイケている状態を知ること、そんな自分に愛着を持つこと、その気になればいつでもイケている状態に持っていける術を身につけること…が大事だと思う。

多少時間がかかっても、「愛着を持つ」「好きになる」が、すごく大事だ。

でなければ、せっかく教えてもらった似合うものも「好き!」で選べないし、あるいは誰かに勧められたものがいまいちの時に、「好きじゃない」で切り捨てることができない。

せっかく得た知識も、主客が逆転してしまったら台無しだ。


しあわせを感じたかったら、主体的に生きるしかない。

主体的に生きていくためには、自分の感覚に依るしかない。

粗末にしている自分の感覚なんて、信じられない。


もっとポジティブな表現で書けるとよかったんだけど。

たぶん大抵の人は当たり前に好きなものを買って着ていると思うのだけど、ちょっと自分に言い聞かせる意味もあり記事にしてみた。

いい加減、目の前に衣類があったら、自分にとってどれくらいOKでどれくらいNGかおおよその見当はつくようになっているはずだと思う。それでもなぜか、時々何を信じていいかわからなくなり、店頭で発狂しそうになることがある。(もちろん本気ではない)

いいのだ、「好き!」ならば、例え間違ったって。


どういうわけか知らないけれど、日によって似合っていると思える服は違ったりして、それはコンサルティングで勧められた服であっでも例外ではなかったりする。(たぶん客観的には変わらないのだけど、自分の気分とか主観の話ね)

直感に従って生きていくしかない、んだなあ。


今度日を改めて、「むしろもっと間違わせろ!」という話も書きたい。