自己肯定の力

自己肯定の力は愛とか優しさとか安心感じゃない。

愛や優しさを受ければ安心できるかもしれない。
そしてそれを身近な誰かから受けられなかったとしても、神とか芸能人とかの力を借りて自分を支える術を、人は持っている。
愛=許し。愛を受けるうちに自分を許す力が湧いてくる。

でも、人であれ自分であれ、誰かに許されるのを待ってる暇がない時
今すぐ立ち上がらなければならない時
即戦力は、怒りだ。

エネルギッシュな女性作家の作品の影に感じとれたりする作者の怒りの気配とかがあまり好きではなくて、
だからこそかねがね思っていたことではあるんだけど、
無邪気になれない女の一番効率の良いエネルギー源は、怒りだと思う。

最近発見したストレスとの渡りあい方は、怒りを自覚し、開き直ること。
明らかに自分が悪かったとしても、自分は悪くないというスタンスでいること。
とにかく自己否定に向かうべきエネルギーを全部外に向けること。
自分を守るためなら、仮に誰かを憎むことも厭わないこと。
これです。

ずっと、疲れた、疲れたと思っていたけど、疲れではなくストレスだと気付いた途端にエネルギーに溢れた人みたいになった。
ので、急に運動したり、夫の協力のもと、夫の腹に枕を二重に括り付けてサンドバッグに見立て、タコ殴りにするなどの精力的な活動をする気力が湧いてきました。

自分は絶対悪くない。
許される必要すらない自分と、自分を許さない世界(架空)への怒り。
自分を否定する全てに牙を剥け。

っていう気でいるくらいが、自信のない女が仮初めでもタフな心を持つ秘訣な気がするね。
思ってるだけで、社会的に極端に態度を変えるわけではないからね。
なんか、ありがちな女性漫画のノリみたいだけどね。

自分を許さない世界は結局自分の中のものだったりもするので、
突き詰めると、積極的に自分に発破をかけるってことかも。

下着について

そういえば、あまり勝負下着的文化に触れることもなく戦線離脱してしまったので、もうどうでも良いといえばどうでも良いのだけれども…
一般的なブラジャーの形が似合わないのがちょっとした悩みです。
いくらデザインからレースやらリボンやらを排除しようが、色を強めにしようが、ボーダーやヒョウ柄にしようが、あの肩紐の細い感じがダメっぽい。
女っぽい感じがとにかく似合わず、
自他共にスポブラとボクサーパンツが一番マシという評価。
男物を女風に着ている感が必要な模様です。

マニッシュ属性の人は下着をどうしているんでしょうか。
可愛い下着で気分を上げるとか、いいなーと思うけど、似合わなすぎてむしろテンションが下がる。
そんな女もいることに着目してみてもいいのではないだろうか。
機能的にはスポーツ用じゃないけど見た目がスポブラ(タンクトップっぽい)でデザイン性のある下着とか、あったら需要あるんじゃないかと思うんだけど、どうでしょう。見えても恥ずかしくないし。
丈調整?そこをなんとか!!!

最近買ってよかったもの

は、赤い革紐ブレスレット。

細いのぐるぐる巻きみたいなのが苦手なので(嗜好ではなく適性的に)、本当に腕時計の文字盤がないだけみたいなやつ。
に、何かプラプラと金属のチャームが付いてる。

モノトーンとか紺ばかり着ているので、アクセントカラーを小物で入れたいのですが
手軽さがハンパない+職場でも頑張ってる感がなくて浮かない+何にでも合う。
ボーイッシュとかアバンギャルドの人には、アクセントカラーの取り入れ方としてオススメかも。

これが文字盤が付いた普通の時計になると、途端に似合わなくなるので不思議。
やはり小粋さと機能性は相容れないのか…


そもそも腕時計がビックリする程似合わず、新調する際は骨格診断のアナリストさんに「メンズライクな四角い文字盤のゴツいのが良いですよ」と言われたのを信じて探し回ったものの、どれもこれも酷い有様で、きっと自分は腕時計ができない星の下に生まれたんだなあ…と、連れと二人、危うく諦めかけた。
最後の最後に巡り合ったのは、あまり時計っぽくない、ゴツくてメンズライクだがブレスレットのようでもある、かなり風変わりな時計。
それが連れに大好評だったので、事なきを得ました。
正方形もゴツいのもメンズライクなのもアクセサリーに於いては得意なので、アナリストさんのアドバイスは基本的に正しいのだけど、「時計然としていてはいけない」というのが自分の場合は重要なファクターだったようです。
アバンギャルド向きの時計っぽくない時計って、オモチャクラスの価格帯以外だとどんなのがあるんだろう。結構探すの苦労すると思うんだけど。


そういう小粋なものばかりで身を固めていたいところだけど、そうもいかないものもあった。
通勤用自転車。
次買う時はミニベロとかがキュートっぽいんじゃないかとか、
職場の推定ボーイッシュ・骨格ナチュラルの低身長女子が赤いマウンテンバイク(?カゴも荷台もなくてタイヤ細いやつ)に颯爽と乗っているのを見て
「これだ!」と思ったり、考えを巡らせていたけど。
ミニベロってめちゃくちゃバランスとるの難しいのね。
己の運動神経の限界の前に、あえなくママチャリに落ち着きました。
…ママチャリレースで優勝する程立派なママチャリに…
せめてカゴをシャープな四角いやつにしてもらいました。
ママチャリをキュートナイズするカスタム法募集中。

ひとりの時間

以前愛用していたほぼ日手帳を今年久々に買って、今日届いた。
愛用していたのになぜ使わなくなったかというと、ひたすら重いからだ。
学生時代は良かったのだけど、就職してなんとなく手に余るようになってしまった。

それが、1年分を上下巻に分けたバージョンが出たという。
早速カバーにセットしてみたところ(このカバーが既に重い)、劇的に軽いです。
本当は新作のシリコンカバーが欲しかったけど、気付いた時には売り切れだった。
同素材のティッシュケースの触り心地が驚異的に良かったので、次こそは…と思っている。

シリコンカバーはコンパクトそうなところと、あとシームレスで近未来チックなところがアバンギャルド的で良いと思う。
ほぼ日は好きなのだけど、アバンギャルドにはあまり優しくない商品が多い気がする。
せめてパーソナルカラーが春か夏だったら良かったのかもしれないけど、冬のアバンギャルドのせいかモード色が強いので、あのオーガニックな感じがどうにもダメです。

ブログを書く作業もそうだけど、ほぼ日手帳を開くとうまく一人になれる。
日々の喧騒から連れ出してくれる毎日の言葉があり、自分のための白紙の「場」が用意されている。
考える作業は書いたり話したり、アウトプットを交えないとうまくできない。
今年はうまく一人の時間を過ごして、自分の意思を見失わないようにしたいなーとか、思いつつ。


余談だけど、イトイさんはパーソナルカラー冬の骨格ストレートかなと思っている。
デザインタイプはわからないけど、モノトーンの無地のTシャツに黒いジャケットを羽織っている時が一番カッコ良い。

自分の場合はすごく興味を持てたり、好きになったりする人はたまたま自分と同じパーソナルカラーっぽい人が多い気がするのだけど、気のせいだろうか…
あるいは、パーソナルカラーと気質が関係している説と繋がるものだろうか。
(色素が遺伝子で決まっていて、気質も多少は先天的に遺伝する部分があるとすれば、両者に関連があっても不思議はない気はする)
私の好きな人達の共通点があるとすれば、基本的に朗らかで人あたりが良いけど、自分の世界が確立されているが故に根がかなり気難しい、ということかもしれない。
性格占いみたいに分類する気はないんだけど、ちょっと似ている気がするんだよな。

『美を超越せよ』

結構書きかけのまま下書きで放置している記事というのがあって、
基本的には自分の中の熱が冷めてしまったのでもういいかな…と思っているのだけど
表題の記事タイトルは我ながらシビれるものがあったので、ここにサルベージする。

私は自分が可愛らしく生まれつかなかったことにかなり意識的に生きてきたため、
子供時代の性格的な歪みによる人間関係のままならさすら、8割程度は外見に原因があると思っていた。
自分がブスだと気付いていないブスを揶揄する話みたいなのをたまに見るが、自覚しないで生きてこられる程度の微笑ましいブスなど(って言葉を使用するだけで心苦しいが)暖かく見守ってやれよ、と思う。
そんな卑屈さをバネに涙ぐましい努力をして自分を磨き上げていった女性もいるであろう中、私は世の男女が真剣片手に渡り合っている土俵に上がる資格のない、戦力外通告を受けた者としての根性がすっかり身についていた。

それはそれとして、自分自身の装いに対するしっくり来なさは解消したくて、パーソナルデザインなどをかじってだいぶ己の個性を肯定的に捉えることはできるようになった。
今自分の外見を、自分なりの客観性を持って称するなら「個性的」となる。
ファッションが個性的なのではなく、本人の造形が個性的なところが重要。(恐らく美人系じゃないアバンギャルドの人には多いのではないかと思うが)
個性的の世界には、良いも悪いもないから、なんのしがらみもない。だからためらいなく自称できる。
(自意識過剰みたいな感じがするが、アクが強過ぎて常識的で一般的な装いが軒並み似合わない苦労と隣り合わせなので許していただきたい。あと、非凡な顔立ちかというと、そういうことでもない)
そして、強烈な個性はやはり強烈な個性の装いを持って中和され、時に表情を魅力あるものとして見せてくれたりもする、ということも素直に感じられるようになった。
みんな違ってみんないい、っていうようなことね。

ところがどっこい、それでもなおコンプレックスを克服できない私は外見を褒められると、情けをかけられていると思って勝手にプライドを傷つけられ、つい腹を立ててしまう。
もちろん表面上は、大人なのでにこやかに返していまますが。

例えばごくごく稀に、「お洒落」「綺麗」「美人」というようなコメントを賜ることがある。
以下、お世辞と想定した場合の私の見解。

「お洒落」はまあ、実際のセンスがいかほどのものかはさておき、こちらが無難とは言い難い格好ばかりしている関係上、そういう褒め方に至る原理はわかる。
正直、ほぼ自分の毒気を中和するためにそういう服を着ているので、服に着目されると気恥ずかしいというか居心地が悪いのだけど、お気遣いは有難く頂戴する。

「綺麗」は、客観的に見て平常時の私に対する適切な形容とは言い難い。
まあ、百歩譲って感じ方は人それぞれなので、その人がそうだと思ったとしたら否定する筋合いはない表現だ。心苦しさを感じつつもお心遣いのみ有難く頂戴する…けど、ちょっとモヤモヤする。

「美人」これは、ダメである。
個性的な格好の似合う篠原ともえのような美人もいるが、基本的に美人とはレベルの上下のある概念であり、横の広がりはない。(だから「◯◯美人」みたいなオプションをつけないといけない)
そして、美人ヒエラルキーの頂点に君臨するのは、平均顔である。
色んな個性的な顔を足して割って中和し、これといった目につくアクを取ったのが美人である。
アクの強過ぎる私の顔に対する形容としては決定的に不適切であると同時に、ウソがあからさま過ぎるのである。
(私の性格が捻じ曲がっているのは承知だが)なんだがバカにされているとしか思えなくて、むしろはらわたが煮えくりかえりだす。
女は美人って言っときゃいいのか、と。

美人という言葉を褒め言葉としてよく使うのは男性の方で、とりわけ女を人間だと思っていない奴ほどその尺度で人を見る、と勝手に思っている。
びっくりするくらい、自分の顔も顧みず女の顔を値踏みするよね。
遺伝子レベルで美人を追い求めるようにインプットされているのだから仕方がないけど、勝手に女をランク付けして、本音ではこの辺なんだけど、お世辞ではもうちょっと上だよ、なんていう気遣いは、興味ない男から言われても心底どうでも良いし、そのいらん気遣いを生じさせている前提がそもそも失礼だろう、と大人気なく思っている。
ここはお前の世界じゃねーんだよ(バナナムーンゴールド)

美人か美人じゃないかでいうと美人じゃないけど、自分をよく知っていて魅力的な外見の人はたくさんいる。
そういう人を褒める言葉、もっといっぱいあるんじゃないの。
その人の個性をきちんと見て捉えた言葉が、一番その人に贈るのにふさわしい言葉なんじゃないの。
(そうなってくるともうお世辞じゃないけど)
って思うんですけど、求めすぎですかね。
せっかく十人十色の世界で機嫌良くやってるんだからさ。

一番許せないのは、男同士の会話で「美人がいる」って紹介したのち、「言うほどじゃねーじゃん」ってなるパターンの、紹介した側の奴。
お前が美人とかいらん概念を持ってきたおかげでその人は知らないうちに持ち上げて落とされたよ、っていうの、他人の話であっても無性に怒りを覚える。

逆に女子は上下関係に敏感なのか、明らかに美人系であろうローラに「可愛い!」って言ったりするよね。
「美人」は好意がなくても言えるけど(逆に言うと男性はいらぬ誤解を避けるために恋愛対象にしていない女性を褒める時に「美人」という言葉を使うのだと思う)「可愛い」には好意がある。
すごく美人だけど、それに限らず今のあなたの存在全体がチャーミングだよ!っていう意味、だと思っている。

髪色考

髪色は初めて部分ブリーチをして、初めてハイライトとローライトが存在する人になった。
色はアッシュ、と言いつつ冬色とは言い難い黄味が出てしまったので、
ゆくゆくはどうにかして紫を被せて落ち着けていきたいと思いつつ…

全体の色としてはそこまで明るくないが、チャラさがすごい。
ブルーベースの人が黄味の茶髪にするとだいたいチャラくなるように)
しかし、そのチャラさがちょっと良いのだ。

まず、全体が均一な色でないことがとても重要で、メッシュ的な存在はアバンギャルドの強い味方になる。
(メッシュ的に入れれば別に赤味の茶髪でも良かったような気もしてきたが)
ショートカットなので、黒髪だとバッチリセットするかかなりエッジィなカットにするかしないと締まらないのだけど、
髪色に複雑な要素があるとそれだけで保つものがある。
おかげで久々に少しだけエッジ弱めのカットになった。
カジュアル服ばかりのブルーカラーにはこれくらいがバランスをとりやすいかもしれない。
あと、なぜかボーイッシュ度数が上がった気がする。(カジュアルになったから?)

メイクについては、黒髪時代はこれは清純な黒髪ではないんですよ、と主張するためのアイメイクが必要だったが、
アイメイクあっさり+顔映りが悪くなった分のチークやらリップやらを久々にちゃんと塗る、が落ち着くようになった。
黒髪時代はピンクは甘すぎて、最近は極薄のシャーベットオレンジみたいなチークを愛用していたのだけど、久々に昔買い込んだ冬色チークを駆使する時が来たようだ。

あと、滅多に染めない私がわざわざ今発見することでもないだろうけど、髪色が明るくなると重心が上がって少し背が高く見えますね。

上品とは言えないが、『下品一歩手前まで許容範囲なアバンギャルド』人生をしばらくは楽しもうかなと思う。

病院の待合室にて

心理療法ってどうなんですか、ということを聞いてみたら、もっと鬱が良くなったらここでもできるよ、ということだった。
ここでもできるけど、私はまだそこに至れないくらい鬱患者なのか!(…ホントか!?)
自分としては生まれてこの方だいたいこんな感じだと思っていたので、えらい思い上がり、というか客観性のなさであった。
確かに昔読んだ精神分析の本でも、自由連想法なども神経症を治すもので、精神病には薬を使うということだった。
しかし、鬱は心の風邪などと最近口当たり軽めに表現される鬱は、精神病の躁鬱とかの鬱と同じ程度の病なのか?
よくわからないことばかりである。

鬱といえば大人しくしていそうなものだけど、私といえば軽く(不定期的に)買い物依存症らしきものを発揮し
通販で返品不可の上着を2着も買って失敗したり、冬色とは言い難い髪色に染めてチャラくなったり、社用のイベントでボウリングパーティに興じたりとわりと派手にやっている感がある。
その代わり、パーティ後は反動で死にそうになっていたけれども。

こういう人は一丁前に鬱ぶってて良いのか…?
若干疑問を残しつつも、引き続き様子を見る。